播磨三大社巡り - 粒坐天照神社 - 1

盆休みに播磨三大社と呼ばれている神社に行ってきました。
播磨三大社とは
  • 播磨国宍粟郡(現:宍粟市一宮町須行名) 伊和神社
  • 播磨国揖保郡(現:たつの市龍野町日山) 粒坐天照神社
  • 播磨国明石郡(現:神戸市垂水区宮本町) 海神社
の3社です。
延喜式神名帳に記載されている式内社であり、名神大社です。
また、伊和神社は播磨国一宮となっています。

伊和神社は台風被害の復旧作業中ということもあり、自粛させていただきました。

最初に向かったのは、たつの市龍野町日山に鎮座する粒坐天照神社です。

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最寄駅は姫新線の本竜野駅になりますね。

粒坐天照神社は"イイボニマスアマテラスジンジャ"と読みます。
鳥居横にあった縁起を丸写ししました。

式内名神大社 粒坐天照神社(たつの市龍野町日山)

 延喜式に揖保郡七座の一つと記載され、宍粟郡一宮町の伊和神社、
垂水の海神社とともに播磨三大社の一つです。
 神社縁起によると、推古天皇二年(五九八)、当地の有力者が神託
を受け、的場山(通称・台山)の頂に祠を建て、農業の守護神天照国
照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)を祀ったのが
始まりです。
 その時、一粒の稲の種と水田を授かり、これを耕作したところ大
豊作となり、一粒万倍したという。以後この土地はイイボ(粒、揖保、
飯穂)の郡と呼ばれる穀倉地帯となりました。
 室町時代の嘉吉の乱(一四四一)の兵火で社殿が焼失、揖西町小神
に遷座しました。
 天正九年(一五八一)、龍野城主となった蜂須賀小六正勝が、日山
(当時は樋山村と呼んだ)の現在地へ遷座、続いて城主となった福島
正則が社殿を造営しました。
 寛文十二年(一六七二)に信州から城主として着任した脇坂家の藩
主も尊崇厚く、神域が拡大され、数多くの境内末社を勧請合祀しました。
 平成六年には神社創立千四百年祭を執行しています。
 神社は再三の火災に遇い、現在の神殿、幣殿、祝詞殿は昭和三十
七年(一九六二)に拝殿、社務所は同五十六年に建立されました。
 二月二十四、五日は菅原道真を祀る菅原神社の祭礼(天神祭)、七月
十四、五日は一年の健康を祈念する輪抜け祭、十月には秋祭があっ
てにぎわいます。
 氏子は龍野、揖西、揖保川の三町の三千三百世帯です。

龍 野 史 談 会
揖保(イボ)の語源は"イイボ"からだったんですねぇ。
勉強になりました。

縁起にも記されている通り天照大神ではなく、天照国照彦火明命が祀られています。
守護神天照国照彦火明命は天火明命のことで、
アメノオシホミミと高木神の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれた。
ニニギは弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。
『先代旧事本紀』では物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。
『播磨国風土記』ではオホナムチの子とする。

名前の「天照国照」「火明」からわかるように太陽の光や熱を神格化した神である。
また、『古事記伝』では「ホアカリ」は「穂赤熟」で、稲穂が熟して赤らむ意味としており、天皇に繋る他の神と同様、稲に関係のある名前でもある。
太陽神、農業神として信仰されている。
このようなことから天穂日命の系譜、つまり天津神系の出雲神を源流としていることが伺える。
(天火明命 - Wikipediaより)


鳥居

第二の鳥居


第三の鳥居


屋台蔵
魚吹八幡神社の先代長松屋台が寄贈されたらしいです。
この蔵に収められているかどうかはわかりませんが・・・。



神門





手水舎




拝殿、本殿はその2へ。

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粒坐天照神社 いいぼにますあまてらすじんじゃ
兵庫紀行 粒坐天照神社 2008/01/13 - 久延毘古 独言

天火明命 - Wikipedia

20090815-粒坐天照神社

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